阿部隆史 執筆C『世界の艦船』2011年5月号 


日本海軍の駆逐艦運用は1898年12月29日の叢雲竣工から始まり、1945年8月15日の太平洋戦争終結までの46年8ヶ月に渡った。
その間、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争など大規模な戦争が繰り広げられ、最終的に40隻が駆逐艦籍にあるまま終戦を迎えた。
これら40隻のうち最古参は1920年3月16日に竣工した澤風(峯風型)、最新鋭は1945年6月18日に竣工した初梅(橘型)であった。


日露戦争「大艦に対する雷撃」
日露戦争の開戦劈頭、日本海軍の駆逐艦部隊は旅順を夜襲し戦艦チェザレウィッチ(Tsessarevitch)とレトウィザン(Retvisan)、防護巡洋艦パルラーダ(Pallada)を撃破した。
使用された兵力は第1、2、3駆逐隊の駆逐艦10隻である。

戦艦 チェザレウィッチ
戦艦 レトウィザン

なお第4、5駆逐隊は大連に向かったが同地にロシア艦は在泊していなかった。
旅順に対する夜襲は2月14日にも繰り返され第4駆逐隊の速鳥、朝霧が戦艦ペトロパブロフスク(Petropavlovsk)を撃破している。

防護巡洋艦 パルラーダ
戦艦 ペトロパブロフスク

更に2月24日には第3次旅順攻撃が実施されたが、この攻撃は閉塞作戦に呼応する攻撃となり、第4駆逐隊第2小隊と第1駆逐隊が支援として参加するにとどまった。
ついで3月10日の第4次旅順攻撃では第1、2駆逐隊がロシア駆逐艦6隻と交戦し、ロシア駆逐艦ストレーグシチイ(Steregushchi)を撃沈するも日本駆逐艦も大部分が損傷した。
双方の駆逐艦による小競り合いはその後も続き、4月13日には第2駆逐隊がストラシヌイ(Strashni)を撃沈、同艦の救援に出撃した戦艦ペトロパブロフスクが触雷で沈没する。
この時の機雷44発のうち24発は第4、5駆逐隊により敷設された物であった。
旅順を巡る戦いでは双方とも多数の艦船が触雷したが、5月17日には駆逐艦暁、9月3日には速鳥が触雷で沈没している。
8月10日の黄海海戦には5個駆逐隊全て投入されたが12日に朝潮と霞がロシア駆逐艦レシテリヌイ(Ryeshitelni)を捕獲した他、見るべき戦果は挙げられなかった。
以降、旅順のロシア艦隊は港内に逼塞し日本駆逐艦は海上封鎖に従事する。
なお旅順攻防戦末期には多数の小型艦艇が戦艦セバストポリ(Sevastopol)攻撃に投入されたが、駆逐艦は12月12日に第1駆逐隊が参加しただけであった。
次に日本海軍駆逐艦が大量投入された戦いは最終決戦となる日本海海戦であった。
この海戦では初日の昼戦で第4、5駆逐隊が戦艦スウォーロフ(Kniaz suvarov)攻撃に参加した他、夜戦では全駆逐隊が水雷艇部隊と協同し戦艦シソイウェリキー(Sissoi veliki)、ナワーリン(Navarin)、装甲巡洋艦ナヒーモフ(Admiral nakhimov)、モノマーフ(Vladimir monomakh)などを撃沈した。
夜戦で特筆すべきは第4駆逐隊による連繋機雷攻撃の実施である。

そして翌日、日本海全域に渡り残敵掃討戦が繰り広げられ、有明がベズープリョーチヌイ(Bezuprechni)追撃戦、叢雲がスウェトラーナ(Svietlana)及びブイスツルイ(Buistri)追撃戦、不知火がグロームキイ(Gromki)追撃戦、漣と陽炎がベドウィ(Byedovi)追撃戦、朧、電、曙、吹雪、朝霧、白雲がドミトリー・ドンスコイ(Dmitri donskoi)追撃戦に参加した。
日露戦争中、日本海軍駆逐艦は大艦に対する雷撃で大きな戦果を挙げたが砲撃を中心とした駆逐艦同士の交戦や機雷敷設及び掃海の機会も多く、艦隊のワークホースとして大きな働きをなした。

駆逐艦 ベズーブリョーチヌイ(ボイキィ型)

また、日本海軍が日露開戦時までに建造した駆逐艦20隻のうち3隻までもが座礁で喪失(日露戦争後も含む)しているが、これは当時の駆逐艦が浅海での活動を求められていた事の証左と言えよう。
日本海軍は日露開戦前、英国へ雷型6隻、東雲型6隻、暁型2隻、白雲型2隻の16隻を発注し、春雨型7隻から国産化に移行した。
ついで神風型32隻を建造し最終的に300tクラスの駆逐艦は55隻(鹵獲艦を含まず)に達した。
これらの駆逐艦は大正元年8月28日をもって三等駆逐艦に類別された。
その後、旧式化するに従い特務艇、掃海艇、雑役船などへ艦種変更されていった。


第一次世界大戦及び戦間期「対潜戦と海上封鎖」
1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発し8月4日には英国が参戦、英国と同盟関係にある日本もまた同月23日、参戦に踏み切った。
この時点で日本海軍が保有する駆逐艦は49隻もの多数にのぼった。
しかし石炭を燃料とする極端に航続距離の短い三等駆逐艦が45隻(うち3隻は実験的な混焼)を占めており一、二等駆逐艦は僅か各2隻に過ぎなかった。
つまり駆逐艦数が不充分である事は当初から明白であった。
よって上記兵力で青島要塞攻略の封鎖作戦を実施するかたわらで急遽、樺型12隻が建造され1915年前半期に逐次、竣工していった。

駆逐艦 樺型

更に1915年10月27日、英へ発注していた浦風が横須賀に回航され航洋型駆逐艦は15隻となった。
ついで日本各地の造船所では仏の発注による樺型の略同型艦12隻と桃型4隻、磯風型4隻の建造が急ピッチで押し進められた。
こうしたさなかの1917年1月11日、対潜艦艇不足に悩む英が、駆逐艦の地中海派遣を要請し日本側は2月10日の閣議で了承した。
この時点で日本海軍が保有する航洋型駆逐艦は前述15隻に桃を加えた16隻に過ぎない。
日本海軍は既に2月7日の時点で佐藤皐蔵少将を指揮官とする第2特務艦隊(旗艦:防護巡洋艦明石)の編成を下令していたが、編入された駆逐艦は8隻(第10及び11駆逐隊で全艦樺型)で保有する航洋駆逐艦の半数に及んだ。

防護巡洋艦 明石

第2特務艦隊は行程約1万浬を経て4月13日にマルタへ到着している。
そして4月21日に爆雷と投下器を装備し5月4日から対潜戦を開始した。
一方、2月1日にドイツが無制限潜水艦戦を宣言した為、英は5月5日、日本へ対し更なる駆逐艦の増派を要請、日本は5月15日の閣議で増派を決定した。
増派されたのは竣工直後の桃型4隻で編成された第15駆逐隊である。
こうして地中海に派遣された日本駆逐艦は767隻の輸送船と21隻の海軍艦艇を護衛し、108回対潜戦を繰り広げた。ただし残念ながら撃沈戦果はない。
これは第一次世界大戦で米海軍が駆逐艦64隻、駆潜艇77隻の計141隻を投入し対潜戦500回、撃沈10隻を記録したのに比べると量的に劣るが、出動率が英の60%、仏伊の45%に比べ72%と高く貢献度は非常に高かった。
なお1917年6月11日、榊がオーストリー潜U27の雷撃を受け大破(戦死59名、負傷22名)している。
第2特務艦隊の地中海派遣により日本駆逐艦は初めて対潜戦を経験し貴重な戦訓を得たが、その後のネーバルホリデイによって戦訓は次第に風化していった。

それから20年後の年7月7日、蘆溝橋事件によって支那事変が勃発した。
中華民国海軍の主要艦艇は1900〜4300tの小型巡洋艦9隻と390tの旧式小型駆逐艦2隻に過ぎず、日本海軍が保有する戦艦9隻、空母4隻、重巡12隻、軽巡21隻、駆逐艦102隻、潜水艦59隻に比べ遙かに劣勢であった。
なお事変勃発当初、日本海軍の駆逐艦は南支に5水戦(第13駆逐隊及び第16駆逐隊の駆逐艦6隻)が展開していたに過ぎなかったが、北支に第14駆逐隊の3隻、中支に11戦隊の栗、栂、蓮の3隻、南支に第5駆逐隊の4隻などが増勢された。
これらの日本海軍駆逐艦は居留邦人の引き揚げ及び陸軍部隊の輸送作戦に護衛兵力として参加している。
ただし護衛が必要な程、中華民国海軍の行動が活発だった訳ではない。
既に8月11日の時点で巡洋艦5隻が揃って自沈、年内にはその他4隻も爆撃などによって全艦沈没し、中国海軍は既に主だった海上兵力を失っていた。
支那事変で日本海軍駆逐艦が果たした最も大きな役割は海上封鎖である。
8月24日から実施された第1次封鎖(正式には交通遮断と呼称)に参加した駆逐艦は5水戦だけであったが、9月3日から始まる第2次封鎖では1水戦、2水戦、4水戦も投入され規模が拡大した。
その後、封鎖は3次、4次と継続し大きな成果をおさめた。
ただし翌年5月10日の廈門上陸、10月12日の広東上陸などで沿岸諸港が次々に陥落すると封鎖はその意義を失い、次第に収斂されていった。


太平洋戦争「ネズミ輸送」
太平洋戦争時の日本海軍駆逐艦は他国に比べ強大な魚雷兵装を有していた。
その背景には1922年に調印されたワシントン条約がある。
同条約で主力艦保有量を対米6割に制限された日本海軍は、艦隊決戦前夜に巡洋艦及び駆逐艦が敵主力艦を長射程雷撃する漸減作戦を立案した。
すなわちこの時点で日本駆逐艦は重雷装化への道を余儀なくされたと言えよう。

特型駆逐艦

更にロンドン条約で補助艦の保有量が制限されると1艦あたりの魚雷発射可能数を局限まで大きくする方向に進み重雷装化が一層、顕著になった。
無条約時代の到来によって日本海軍駆逐艦は砲熕兵装と魚雷兵装のバランスが良くなり航続力も長くなったが、他国に比べ圧倒的に魚雷兵装が強力な事は変わらなかった。
一方、1940年6月の段階でもソナー装備艦は僅か22隻に過ぎず、対潜兵装は魚雷兵装や砲熕兵装より副次的に考えられていた。
こうした特徴をもつ日本海軍の駆逐艦は北はアリューシャンから南はソロモン諸島、東はハワイ、西はセイロンに至るまで太平洋及びインド洋を駆け巡り諸海戦に参加したが、敵主力艦を雷撃する機会は到来しなかった。
真珠湾奇襲によって米太平洋艦隊の主力艦は大打撃を受け、海戦の主役が空母へと移り代わっていたからである。
ただしエンドウ沖海戦やバリ島沖海戦、スラバヤ沖海戦、バタビア沖海戦では英米蘭の巡洋艦や駆逐艦と激戦を繰り広げ、多大な戦果を挙げている。
またハワイ作戦やインド洋作戦、珊瑚海海戦などの空母戦でも護衛兵力として随伴し、対潜警戒や不時着機の乗員救助などに従事した。

空母や輸送船の護衛兵力として使用されるのならば大きな被害を蒙る事はない。
だがガダルカナル攻防戦を境に事態が一変する。
駆逐艦が高速力を活かした輸送任務へ投入され始めたのである。

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