阿部隆史 執筆@ 『丸』2006年4月号掲載



昭和17年6月5日のミッドウェー海戦で日本海軍が大敗を喫した要因が索敵の不備にあった事は巷間によく知られている。
そして利根4号機の発進遅延や度重なる報告の錯綜が機動部隊司令部の用兵ミスを招いた点も論を待たない。
よって重巡利根ならびに筑摩が所属する第8戦隊(阿部弘毅少将)が実施した索敵戦を論証する事は、「ミッドウェー作戦で何故、日本海軍が敗れたか?」を知る為の重要な足がかりとなると言えよう。

重巡 利根

さて、空母戦に於いて死命を制する航空索敵のホープとして昭和9年度計画で建造された利根型(基準排水量11215t:35ノット)は、いわゆる航空巡洋艦(日本海軍に航空巡洋艦と言う艦種呼称は存在しない。本稿での航空巡洋艦とは単に「航空機搭載能力の大きな巡洋艦」と言う意味である。公式には重巡と言う艦種も日本海軍には存在せず利根型は二等巡洋艦に類別されていた。)であった。
呉式2号5型射出機(カタパルト)2基を装備し、6機の水上機搭載能力を持つ利根型2隻は第8戦隊を編成して空母機動部隊(南雲忠一中将:正式には第1航空艦隊)に所属し、諸海戦で縦横無尽の活躍を遂げている。
開戦時のハワイ作戦からして利根1号機はラハイナ泊地、筑摩2号機は真珠湾の事前偵察に従事し大勝利へ多大な貢献を為した。
以降、利根型2隻は第2航空戦隊(空母飛龍、蒼龍基幹)と協同しての昭和16年12月のウェーク島攻略支援作戦、翌年1月のラバウル攻略作戦、4月のインド洋作戦などに参加し、6月にはミッドウェー海戦へ参加するに至った。

これらの海戦で利根型が果たした役割の大部分を担ったのは主砲(20.3p8門)や魚雷発射管(61p12門)ではなく搭載機と射出機である。
利根型の搭載機は建造計画時、3座の94式水偵2機と複座の95式水偵4機であったが、開戦時には3座の零式水偵も搭載され、ミッドウェー海戦時には零式水偵3機と95式水偵2機が搭載されていた。
よってこれらの機種を概括してみよう。

零式水上偵察機

愛知航空機(旧名愛知時計電機)により12試3座水上偵察機として開発された零式水偵は、昭和15年12月に零式水上偵察機11型として制式化されるに至った。

特徴は当時の単発水上機(低翼単葉双フロート機)としては希に見る最高速力(376q/時)と航続力(日本海軍のデータとしては2600q、メーカー側では3326qとしている。)を備えていた事で、生産機数は1423機に及ぶ。
この機数は水上機としては格段に多く99式艦爆の1515機、彗星2157機、天山1268機、97式艦攻約1250機など、他の単発機と較べても遜色がない。
日本海軍が零式水偵に大きな比重をかけていた証左と言えよう。
一方、米海軍でもっとも多く使用された水偵(生産機数1519機)は通称キングフィッシャーと呼ばれるOS2U(昭和13年7月試作機初飛行)であったが、零式水偵と同じ単葉水偵(ただしOS2Uは複座)ながら能力がケタ違いに低かった。

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