第1節 戦果と損害
一般的に「自軍の損害報告はアテになるが戦果報告はアテにならない」とされる。
そこで今回はノモンハン事変を例に取り、彼我の損害報告と戦果報告のズレを考察する。

ノモンハン事変は1939年5月11日に勃発し同年9月15日に停戦した日ソ両軍の国境紛争である。
えっ、たかが国境紛争レベルでは参考にならないって?
そんな事はない。
ノモンハン事変は日本陸軍航空隊にとって「とてつもない大戦(オオイクサ)」だった。
日本陸軍戦闘機搭乗員を調べる時のバイブルとも言える航空情報別冊「日本陸軍戦闘機隊」をひもとこう。
ここには日本陸軍のエース一覧と経歴があるが、これによると20機以上撃墜した搭乗員は23名おり、そのスコアを合計すると計630機となる。
そしてそのうち416機がノモンハン事変でのスコアとなっているので、太平洋戦争でのスコアはなんと214機だけだ。
(日華事変でスコアを挙げたエースは加藤健夫少将:18機や江藤豊喜少佐:12機などごく少数であり、20機以上エースでは1名も存在しない)
昭和16年12月から昭和20年8月15日まで44ヶ月続いた太平洋戦争が214機でたった4ヶ月(僅か1/11の期間!)のノモンハン事変が416機?
太平洋戦争では陸軍航空隊の空戦が行われなかったのだろうか?
そんな事はない。
開戦直後のフィリピン航空戦やマレー航空戦、蘭印航空戦、それに続くビルマ航空戦やソロモン、ニューギニア航空戦、フライングタイガースと戦った中国航空戦、末期に死闘を繰り広げたフィリピン航空戦や台湾、沖縄航空戦ならびに本土防空戦。
随分と空戦はあったはずだ。
だがトップエース23名による1ヶ月あたりの撃墜機数で言えば太平洋戦争が5機弱なのに対し、ノモンハン事変は104機で20倍を越える。
「ソ連機はチョロイからね。米英軍機とは比べ物にならないよ。」とか「きっと太平洋戦争のエースは20機未満にギッシリひしめいているのだな。」と見るのもひとつの考え方であろう。
しかしここで「ノモンハンでの戦果報告はちょっと怪しくないか?」と考えるのも重要ではあるまいか?

いずれにしても日本陸軍航空隊にとってノモンハン事変が「とてつもない大戦」であったのは事実である。
なにしろノモンハン事変勃発当時、日本陸軍の戦闘機部隊は10個戦隊(第5戦隊や第13戦隊などの練習部隊を含む。これらの部隊や第4戦隊は1個中隊しか戦闘機を保有していないし第1戦隊や第24戦隊、第59戦隊は2個中隊編成である。)と1個独立中隊で23個中隊(97戦×15個、95戦×8:当時は1個中隊約9機だったので搭乗員の概数は約200名)だったが、これらのうち20個中隊(97戦×14、95戦×6)がノモンハンへ投入され100名近い戦闘機搭乗員を失ってしまったのだから。

特に戦闘機指揮官の損耗は激しく戦死者だけで少佐1、大尉8、中尉10に及ぶ。
「ふうん、戦闘機部隊じゃ佐官の戦死者は1名だけか。」と思ってはいけない。
投入された7個戦隊(1、9、11、24、33、59、64)のうち33戦隊が戦場にいたのは16日、59戦隊は6日、9戦隊は3日だけなので、戦い続けた4個戦隊に限れば11戦隊を除く3個戦隊全てで戦隊長が撃墜され負傷しているのだ。

95式戦闘機

特に第1戦隊では7月12日に戦隊長の加藤中佐が負傷し、29日には後任の原田少佐が初陣で戦死、最終的には全中隊長と全将校が死傷するに至った。
損害が多発したのは第1戦隊ばかりではない。
歴戦4個戦隊(計11個中隊)でみれば中隊長11名中9名が死傷し、その後任中隊長や中隊長代理達も続いて軒並み死傷している。
ノモンハン事変での指揮官大量喪失がその後の日本陸軍戦闘機隊に大きな影響を及ぼした事は言うまでもない。


第2節 ノモンハン航空戦の概略
それでは事変の推移についてあらましを述べよう。
1939年5月11日、日ソどちらかの軍が越境して国境紛争(第1次ノモンハン事変)が勃発した。
この際、それが「どちらかである事」はどうでも良かった。
要はどちらも「退く気はないって事」が重要だったのである。

かくして事変は拡大した。
陸戦について書くと長くなるので以降は航空戦、特に戦闘機部隊についてだけ述べる。
最初、ノモンハンにいたソ連航空部隊は第70戦闘機連隊(ザバルーエフ少佐:38機)と第150爆撃機連隊(29機)とその他15機(ノモンハン全戦史では17機)からなる第100混成飛行団であった。
そこで関東軍は制空権を得るため13日に第24戦隊(97戦2個中隊)を投入した。
第24戦隊は18日から哨戒を開始し20日には初撃墜(偵察機)を記録する。
ソ連側としても黙っちゃいられない。
22日には第22戦闘機連隊(グラズイキン少佐:63機)と第33爆撃機連隊(59機:ただし38爆撃機連隊と記述する資料もある)を繰り出す。
24日には負けじと日本軍が11戦隊の半数(97戦2個中隊)を進出させた。
もはやノモンハン上空は大空戦である。
この戦いは日本軍が勝った。
日本が主張する戦果とソ連が発表する損害で食い違いが見られるものの、5月中に撃墜されたのは28日に光富中尉が落とされただけであり、ソ連側も戦果が1機しか無い事と負けた事を認めているのだから。
29日、危機感を抱いたソ連軍は本国のスムシケービッチ空軍副本部長が48名のベテラン戦闘機パイロットを率いて旅客機3機でモンゴルの前線に乗り出す。
ついで30日、日本の第11戦隊の残部(97戦2個中隊)が進出した。
「このまま事態が推移していくとノモンハンは航空機だらけになるな」と思われたが、6月2日に第1次ノモンハン事変は終結する。
終結と言うと「ああ、停戦交渉が開催されてハナシがついたのだな。」と思われるかも知れない。
でも日本軍が陸上部隊をちょっと後方へ退いただけでソ連としちゃ何も紛争を終えたつもりはなかったのだ。

相変わらずソ連は兵力の増強に努めるので、6月17日には当然の如く第2次ノモンハン事変が勃発する。
今度は日本軍も兵力を小出しにはしない。
6月19日、第2飛行集団(戦闘機は第1、11、24戦隊:合計97戦8個中隊)に展開命令が下される。
かくして日ソ両軍は再び激烈な航空戦を繰り広げ22日にはグラズイキン少佐、24日にはザバルーエフ少佐が戦死した。
この余勢をかって発動されたのが6月27日の第1次タムスク空襲である。
ソ連軍飛行場を覆滅するこの作戦に日本軍は偵察機12機、戦闘機74機、軽爆6機、重爆21機の合計113機を投じ、98機撃墜(日本陸軍戦闘機隊による数値:辻参謀の手記によると地上撃破を含め114機としている:丸648号では地上撃破を含め110機:世界の戦闘機隊では140機)の戦果(作戦に参加した第11戦隊の瀧山中尉ですら「とてもそんな数字にはならないはずです」と語ってるが)を報じた。
ただし当時のソ連軍兵力は空襲直前で戦闘機151機、爆撃機116機の計267機に過ぎず、空襲による損害は14機(丸648の数値)としている。
最初は「負け」を認めていたソ連軍はこの頃から「戦果」を主張し始め、両軍の戦果発表は大きなズレを示し出す。

さて両軍はますます戦力を増強する。
7月21日、ソ連は第56戦闘機連隊を進出させ8月15日には日本が第64戦隊(97戦3個中隊)を投入。
そして8月21日には第2次タムスク空襲、22日には第3次タムスク空襲が発動されたが、7月12日に加藤中佐(第1戦隊:負傷)、7月29日に原田少佐(第1戦隊:戦死)、8月4日には松村中佐(第1戦隊:負傷)と各戦隊長以下、搭乗員の死傷が相次いだ。
もはや前線の日本軍部隊はズタズタである。
この穴を埋める為、8月30日には第33戦隊(95戦3個中隊)、9月9日には第59戦隊(97戦2個中隊)、9月12日には第9戦隊(95戦3個中隊)と更なる増援が繰り出されたが、もはや97戦部隊は払底しており増援の主力は複葉の95戦部隊と成り果てていた。
なお最終期、ソ連軍は第19、22、23、56、70の5個戦闘機連隊を擁している。
そして9月15日の第4次タムスク空襲をもって航空戦は終わりを告げ、同日成立した停戦交渉によってノモンハン事変はその幕を閉じたのである。


第3節 火力と防御力の比較
ここで両軍の主力戦闘機となった日本軍の97式戦とソ連軍のI−16を少し比較してみよう。

97式戦闘機
ポリカルポフ I−16

双方とも1930年代後半を代表する低翼単葉の単発戦闘機だが、97式戦が固定脚、I−16は解放式キャノピーと言う欠点をもっており最高速度は同程度である。
また97式戦は運動性が優れていたが火力と防御力が弱く、I−16は運動性が悪いものの火力と防御力が強かった。
それでは97式戦と同時期に開発された各国戦闘機の火力を列記してみよう。
97式戦は1935年12月に開発が開始され1936年10月に試作機が初飛行し、1937年12月から量産された7.7o機銃2門を装備する単発単座戦闘機だ。
まずドイツで相当する戦闘機を探すと1935年9月に試作機が初飛行したBf109がこれに相当する。

Bf109は試作機段階では7.92o機銃2門の軽武装だったが、初の量産型(1937年3月)であるB型では7.92o機銃3門となり、1937年末から生産が開始されたC型では7.92o機銃4門に強化された。

メッサーシュミット Bf109D


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