それではまず開戦時の台南空搭乗員について解説しよう。
以前、「航空戦の実相」で触れたが、開戦時の台南空は初日のフィリピン攻撃へ45機出撃させ、これら45名中4割の18名が開戦から7ヶ月以内に戦死した。
当時の台南空は1個中隊9機(中隊は3個小隊なので1個小隊は3機となる。
また中隊長は第1小隊長を兼任する。)で編成されていたが各中隊で損耗に大きな差がある。
第4中隊の場合、開戦から2ヶ月を経ずして過半数の5名(55%)が戦死したが、坂井上飛曹が所属した第1中隊の同期間に於ける戦死者は2名(22%)だけだった。
不運だったのは第4中隊ばかりではない。
第1中隊は過半数の5名が太平洋戦争を生き抜き終戦を迎えたが、第3中隊の場合、1名を除いて全て戦死している。
第2中隊にしても生き残ったのは1名だけに過ぎない。

まず搭乗員45名の搭乗員歴を見よう。
搭乗員歴1年以上のベテランが35名、1年未満の若年搭乗員が10名である。
ではこれらの搭乗員は均等に配員されていたのだろうか?
そんな事はない。
第1〜3中隊まではベテラン8名と若年搭乗員1名で編成されていたが第4中隊はベテラン6名に若年搭乗員3名、第5中隊に至ってはベテラン5名に若年搭乗員4名で編成されていた。
また小隊レベルで見ると第4中隊の第3小隊と第5中隊の第3小隊などはベテラン1名と若年搭乗員2名である。
ベテランと若年搭乗員の生存比率を比べて見よう。
ベテラン35名中で太平洋戦争を生き残ったのは12名で生存率34%。
一方、若年搭乗員10名中生き残ったのは1名で生存率は10%に過ぎない。
実に3倍以上の開きがある。

零戦21型

しかし「物は言いよう」でもある。
まったく同じデータを戦死率で比較すると「ベテランは35名中23名が戦死して戦死率65%、若年搭乗員は10名中9名が戦死して90%。ベテランと若年搭乗員の差は1.5倍未満に過ぎない。」となる。
かくも数値から実相を反映させるのは難しい。
坂井上飛曹が所属した台南空第1中隊は「運と実力を持ち合わせたベテラン揃い」であり、精強を誇った台南空でもちょっと特殊なのである。
「大空のサムライ」の語る言葉は真実であると僕は思うが、違った観点から台南空を見る事もまた重要であろう。

それではお待ちかねの「台南空のエース」について。
なお以降、階級は最終階級(よって坂井上飛曹ではなく坂井中尉となる。また死後昇進した場合も適用する。)で記述する。
日本海軍のエースでスコア11機以上は90名存在するが、そのうち26名が台南空での在隊経験をもつ。
ちなみにスコア16機以上に限れば39名中14名だ。
この14名中で開戦時から台南空に在籍していたのは7名。
ただし開戦初日の攻撃で出撃したのは6名であった。
坂井三郎中尉(スコア64機)、太田敏夫飛曹長(34機)、石井静夫飛曹長(29機)、田中国義少尉(17機)、上平啓州中尉(17機)、石原進少尉(16機)の面々だ。
また開戦時に出撃した45機のうち16機未満のエースでは宮崎儀太郎中尉(13機)、磯崎千利大尉(12機)、和泉秀雄1飛曹(9機)などがいる。
合計9名のうち石原進少尉と和泉秀雄1飛曹以外の7名は開戦時のベテランである。
45機のうち9名が著名なエースとなるのだから流石と言うしかない。
一方、開戦時には若年搭乗員ゆえ先発メンバーには入らなかったが以後、メキメキとスコアを伸ばしたエースに笹井醇一少佐(27機)がいる。
彼は若年搭乗員のまま撃墜王となり若年搭乗員のまま戦死した。
一種の天才型エースと言えよう。

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