日本海軍の艦載機搭乗員概説

第一節 ミッドウェー海戦
一般的に「ミッドウェー海戦は太平洋戦争の天王山であり空母機動部隊の壊滅が敗戦を決定づけた。」とされている。
それは確かだ。
空母や航空機の喪失については。
だが搭乗員の損害についてはどうであろう?
実のところミッドウェー海戦では米空母と死闘を繰り広げた飛龍の搭乗員こそ全滅に近い損害をだしたものの他の3空母搭乗員は大した損害を受けていないのだ。
搭乗員全体についての正確な損失数は澤地久枝著「記録ミッドウェー海戦」に詳述されているのでここでは大尉以上の搭乗員指揮官についてだけ見てみよう。
赤城に乗っていた指揮官搭乗員には淵田中佐(戦後に「ミッドウェー」を著述)を筆頭に雷撃の神様として有名な村田少佐、強行偵察の名手として名高い千早大尉(「我に追いつく敵機なし」の電文で有名)、エース戦闘機搭乗員の白根大尉(「紫電改のタカ」にもでてくる。スコア9機)などがいたが彼らは全員、生き残って内地へ帰還した。
エース戦闘機搭乗員として名高い加賀の飯塚大尉(スコア8機)や蒼龍の藤田大尉(スコア11機)、艦爆隊の名指揮官として著名な江草少佐なども。
なんと飛龍にのっていた重松大尉(彼もエースとなった戦闘機乗り。スコア10機)もである。
(他にも大勢、生き残ったがとりあえずこれだけ挙げておく。)
結局、ミッドウェー海戦で戦死した大尉以上の搭乗員指揮官は11名で珊瑚海海戦の8名より3名多いだけだった。
「将校はたくさん生き残ったが下士官兵は皆戦死したのか?」
その様な事はない。
「記録ミッドウェー海戦」によると航空機搭乗員戦死者数は米軍の208名に対し日本軍121名とある。
空母撃沈数では1対4と大敗を喫したが搭乗員戦死者数では逆に日本軍の方が少なく日本の空母4隻が沈没した時に艦と運命を共にしたのは121名のうち29名だけであった。
空母の搭乗員総数は不明であるが各機種の搭乗員が艦戦1名、艦爆2名、艦攻3名なのでざっと概算すると約500名となる。
よって逆算すると泳いで助かった搭乗員は約380名となり29名の損失は全体の1割弱に過ぎず「空母が沈んだとしても周辺に救助を担当する随伴艦(多くの場合は駆逐艦)があれば必ずしも搭乗員が戦死するとは限らない」と考えられよう。

それでは次に空母の搭載機数について若干、ふれて見よう。
御存知の通り日本空母の搭載機数には定数(常用機と補用機によって構成される:以下常用機+補用機で表示する)とは別に実数(実際に作戦期間中に搭載している機数)がある。
例えば蒼龍の場合、開戦時の定数(戦史叢書:ハワイ作戦127頁)は艦戦18+3、艦爆18+3、艦攻18+3の54+9機だったが実数(同書344頁)は艦戦21、艦爆18、艦攻18の57機だった。
これがミッドウェー海戦時の実数だと艦戦21、艦爆18,艦攻18、艦偵2の59機となる。
作戦経過の推移によって実数は常に変動する。
また定数自体が変化する場合もある。
開戦時、瑞鶴の定数(戦史叢書による定数)は艦戦18+3、艦爆27+3、艦攻27+3の72+9機(丸スペシャルなどでは補用機の数が異なる)であったが1942年1月からは艦戦18+3、艦爆18+3、艦攻18+3の54+9機に減らされてしまった。
大型の新型機が開発されたので機数が減らされた訳ではない。
搭載機の機種は同じままだ。
単に格納庫が「がら空き」になっただけなのである。
定数が減れば実数もまた小さくなる。
よって真珠湾奇襲では72機であった瑞鶴の搭載機実数は珊瑚海海戦では僅か45機(定数の常用機は54機であるが損耗により更に少なくなっていた)にまで減少してしまった。
それはなぜか?
開戦後、祥鳳や隼鷹などの改装空母が続々と竣工した為、海軍航空隊はこれらの搭載機を工面せねばならなかったのである。


第二節 開戦と兵力の拡張
さて開戦時に日本海軍の主力空母6隻が搭載した航空機の実数は艦戦120、艦爆135、艦攻144の合計399機だった。
前述したように艦戦の乗員は1名、艦爆2名、艦爆は3名だから搭乗員数の合計は822名となる。
ただし「実際に6隻の空母に乗っていた搭乗員が822名か?」と言うと答えは「必ずしもそうではない」となろう。
日本海軍の陸上航空部隊では搭乗員定数を航空機の「常用機定数の1.5倍」と規定(戦史叢書ハワイ作戦216頁)していた様であるがこれは目標数値であり搭乗員実数はこれを大きく下回っていた。
実例を示そう。
1942年5月20日の時点で太平洋正面に展開していた第24及び第26航空戦隊の兵力(戦史叢書ミッドウェー海戦215頁)であるが隷下6個航空隊のうち第1航空隊は定数(常用機のみ)が艦戦27、陸攻27であるが実数は艦戦17、陸攻32であり搭乗員は艦戦22名、陸攻29組であった。
木更津航空隊は定数(常用機のみ)が陸攻27で実数が陸攻23、搭乗員は陸攻27組、三沢航空隊は定数(常用機のみ)が陸攻27で実数が陸攻27、搭乗員は陸攻28組である。
これらから搭乗員実数は航空機の実数と「大きな差はない事」が窺えよう。
まあそれはさておいて前回は隼鷹と祥鳳の竣工によって日本海軍航空隊が搭載機と搭乗員を工面しなければならなくなった事を書いた。
よって今回は両空母の搭載機数の話となる。
まず1942年1月26日に改装完了した祥鳳だが同艦の搭載機定数は艦戦12+0、艦攻12+0の24+0機であった。
1942年5月3日に竣工した隼鷹の方は少々、ややこしい。
丸スペシャル軍艦メカ3によれば定数が艦戦12+3、艦爆18+2、艦攻18+0の48+5機であるが淵田美津雄著「ミッドウェー海戦」では艦戦24、艦爆21の45機としており戦史叢書:ミッドウェー海戦236頁ではAL作戦時の定数を艦戦6+2、艦爆15+4の21+6機、便乗の6空艦戦を12機としている。
更に丸スペシャル11号32頁にはAL作戦時の搭載機が艦戦20,艦爆19と記載されている。
AL作戦時の出撃機数にしても計画では4航戦(隼鷹、龍譲)の第1次が39機(戦15、爆15、攻9)、第2次が12機(戦3,攻9)の51機(戦史叢書:ミッドウェー海戦236頁、この機数は隼鷹、龍譲の定数:常用機の合計に一致する)であったものが実際の出撃機数となると戦史叢書:ミッドウェー海戦279頁では第1次45機(戦16、爆15、攻14)、第2次45機(戦12,爆15、攻14,水偵4:計画と違い第2次攻撃隊は第1次攻撃隊の帰還機で編制された)としており淵田美津雄著「ミッドウェー」では第1次27機(戦9,爆12,攻6)、第2次24機、柑灯社「日本海軍戦闘機隊」では第1次34機(戦16、爆12,攻6)、第2次21機(戦6、爆15)としている。
(戦史叢書:ミッドウェー海戦に於ける隼鷹の定数は実数ではないかと考えられる。同書の攻撃隊編制機数にそれが窺える。僕はAL作戦時に隼鷹が搭載した実数を6空の便乗艦戦を合わせ艦戦18、艦爆15と判断している)
まあいずれにしても祥鳳の24機と隼鷹の48機を合わせ日本海軍航空隊は80機前後の航空機とそれに見合う搭乗員を用意せねばならなくなった。
そこでまず1942年1月1日、翔鶴、瑞鶴の定数が艦戦18+3、艦爆18+3、艦攻18+3の54+9機に削減(元は72+9機)され4月1日には赤城の艦爆が9機削減された。
これで常用機45機が浮いた勘定になる。
だがそれだけではまだまだ足りない。
本来なら約50機を搭載する予定であった隼鷹がAL作戦時に「異様に少ない定数」で作戦参加している背景には「日本海軍航空隊の搭乗員不足」が大きく影響していると考えられよう。
かくして日本海軍は「隻数は増えたが水増しによって各艦の搭載機数が少なくなった空母機動部隊」で第2段作戦を開始する事になった。


第三節 第2段階作戦
さて第2段階作戦であるが最初に躓いたのは珊瑚海海戦であった。
この戦いに参加した日本空母は第5航空戦隊(以下5航戦と略)の翔鶴と瑞鶴及び輸送船団の護衛を担当した祥鳳の3隻であったが搭載機の定数(常用)は翔鶴と瑞鶴が艦戦18、艦爆18、艦攻18の各艦54機、祥鳳が艦戦12、艦攻12の24機であった。
実数は祥鳳が艦戦13、艦攻6の19機(森史朗著「海軍戦闘機隊4」204頁)、5航戦の2隻が合計114機森史朗著(「海軍戦闘機隊4」251頁)だったらしい。
そしてまず初日の戦いで祥鳳が沈没(艦戦3はデボイネ基地に帰投したが残りは喪失。艦の乗員839名中生存者は203名に過ぎないので残りの搭乗員も殆どが戦死したと思われる)し5航戦もタンカーに対する攻撃や夜間攻撃で18機を喪失、搭載機は96機(森史朗著「海軍戦闘機隊4」350頁)となる。
続く二日目の決戦で日本軍は大量の航空機を失い翔鶴もまた大きな損傷を受ける。
両空母搭載機64機(森史朗著「海軍戦闘機隊4」436頁)は瑞鶴に着艦したがそのうち12機は放棄するに至った。
なお残った航空機のうち使用に耐える機体は39機であった。
すなわち5航戦が作戦開始時に保有していた114機の搭載機と搭乗員は39機(他に損傷機13機)の搭載機と64機分の搭乗員(他に翔鶴への強行着艦や不時着等で救助された搭乗員が11機分)に激減したのである。
これは「もしも補充が得られないのであれば」翔鶴の損傷が復旧したとしても5航戦は各空母に37機しか航空機を搭載できない事を意味する。
ついで発生したミッドウェー海戦で日本海軍は4隻の空母と248機の搭載機(艦戦72、艦爆72、艦攻81、艦偵2、便乗艦戦21:便乗艦戦を除いた搭乗員を合計すると463名になる)及び108名の搭乗員(澤地久枝著「記録ミッドウェー海戦」、他に水偵搭乗員11名と便乗搭乗員2名)を失った。
(ミッドウェー海戦に於ける米軍の搭乗員戦死数は208名)
なお1942年1月1日に翔鶴、瑞鶴の艦攻及び艦爆各9、4月1日には赤城の艦攻9が定数削減された事は前述したがミッドウェー海戦時には加賀の艦爆9も定数削減されている。
さて463−108は355である。
となると約350名が生還したと考えられよう。
艦戦は1名、艦爆は2名、艦攻は3名が乗員数である。
よって1機2名を標準と考えた場合、350名の生還は約175機に相当する。
搭乗員不足に悩む日本海軍は定数削減によって空母数を揃え第2段階作戦に臨み珊瑚海海戦で搭乗員の大損耗を喫するに至った。
もしミッドウェー海戦が生起せねば5航戦の搭乗員は補充しきれなかったであろうし飛鷹の搭載機もまた充当できなかったであろう。
しかしそこへ主(母艦)を失った175機分の搭乗員がミッドウェー海戦の敗北により降って湧いた。
日本海軍はこの搭乗員を如何にして使い空母機動部隊の再建を図ったのか?
まずミッドウェー海戦後の1942年7月14日、空母の搭載機定数(常用)がまたもや変更され翔鶴型は艦戦27、艦爆27、艦攻18の合計72機(丸スペシャル「軍艦メカ3」74頁)、隼鷹型は艦戦21、艦爆18、艦攻9の48機(丸スペシャル「軍艦メカ3」105頁)へと大きく増大した。
この4隻の搭載定数は総計240機になる。
だが前述した様に翔鶴と瑞鶴の搭乗員は両艦合わせて75機分しか残っていないし隼鷹の搭乗員も便乗艦戦を降ろすと19機(AL作戦で艦爆2を喪失している為)に過ぎない。
つまり146機分の搭乗員不足である。
これを穴埋めする為にミッドウェー海戦から帰還した175機分の搭乗員が充当され日本海軍の機動部隊は再編成を完了した。
そしていよいよソロモン海の激闘がその幕を開ける。


第四節 搭乗員の経歴
ミッドウェーから生還した175機分の搭乗員によって146機分の不足が埋められた事は前述した。
しかしここで「そっくり補充に充てられたのではない事」も申し述べて置きたい。
よって話をソロモン海へ移す前に少し「空母搭載機の搭乗員」について説明しておく事にする。
まず日本海軍航空隊搭乗員の配置は大きく分けて「1.基地航空部隊」、「2.空母」、「3.練習航空隊の教官/教員」、「4.その他(開発部門のテストパイロットや中央官庁勤務など)に大別される。
4の「その他」はごく少数の搭乗員しか経験しない配置なので例外となるが搭乗員はこれらの配置を次々に経験して練度を向上させていく。
大戦前半期の艦爆や艦攻では基地航空部隊が殆ど存在しないので2の「空母」と3の「教官/教員」に繰り返し配置されるが戦闘機の場合は1と2と3に繰り返して配置される場合が多い。
(坂井三郎中尉の様に終始、基地航空部隊と教官/教員に配置され空母に配置されなかったケースや菊地哲生飛曹長の様に空母と教官/教員に配置され続けたケースもあるがとりあえずこれは例外とする。なお以下に述べる階級は全て最終階級、スコアも最終スコアである。)
一例を挙げると日本海軍のトップエースの一人として名高い岩本徹三中尉(スコア80数機:202機説もあり:終戦時生存)の場合、開戦時は空母瑞鶴に配置されていたが1942年8月に教官/教員となり1943年3月からは基地航空隊(当初、ホロムシロの281空、後にラバウルの204空、253空)を転戦し本土防空戦でも活躍した。
奥村武雄飛曹長(スコア54機)も1942年8月は空母龍譲に配置されていたがその後は基地航空隊(台南空、201空)へ配置されている。
杉野計雄飛曹長(スコア32機:戦後、海上自衛隊勤務)は基地航空隊(6空)ー>大鷹−>教官/教員−>翔鶴−>基地航空隊(253空)−>教官/教員−>空母(634空)−>教官/教員と言うコースを歩んだ。
石井静夫飛曹長(スコア29機)は開戦時、基地航空隊(台南空)に配置されていたが1942年4月から教官/教員配置となり9月には隼鷹、1年後には基地航空隊(204空)へ移っている。
赤松貞明中尉(スコア27機:自称350機:終戦時生存)は飛行時間6000時間以上の超ベテランであるが戦前に赤城、加賀、龍譲、蒼龍の勤務を経て開戦時は基地航空隊(3空)に配置されていた。
その後、教官/教員配置と基地航空隊(331空)を勤務し終戦時には302空に所属し本土防空戦に参加している。
小町定飛曹長(スコア18機:終戦時生存)は開戦時、翔鶴に配置されており珊瑚海海戦や南太平洋海戦などを転戦したが1942年末から教官/教員配置に移り1943年末からは基地航空隊(204空、253空)、ついで本土防空戦で活躍した。
この様に基地航空隊と空母勤務を重ねた搭乗員の例は数多い。
つまり空母搭載機搭乗員と基地航空隊搭乗員、教官/教員は「別物」ではないのであり搭乗員不足は海軍航空隊全てにおいて共通の問題だったのである。
よってミッドウェー海戦で生還した搭乗員の全てが「そのまま翔鶴、瑞鶴、隼鷹、飛鷹へ配置」されたのではなく基地航空隊や教官/教員へ配置されその代わりに基地航空隊の搭乗員や教官/教員が空母へ配置されたケースも存在する。
だが「ミッドウェーからの生還搭乗員」−>翔鶴、瑞鶴、隼鷹、飛鷹への配乗が多かったのは事実だ。
ミッドウェー海戦の前からこれらの空母に配乗していたエースには岩本中尉(前述)や南大尉(スコア15機)、小町定飛曹長(前述)、佐々木原正夫少尉(スコア12機:終戦時生存)、山本一郎少尉(スコア11機)、小平好直少尉(11機:戦後航空自衛隊)などがいたが岩本中尉と南大尉が教官/教員配置で移動した後、沈んだ4空母から谷口正夫少尉(スコア14機:終戦時生存:赤城−>翔鶴)、山本旭中尉(スコア13機:加賀−>瑞鳳)、大森茂高少尉(スコア13機:赤城ー>翔鶴)、菊地哲生飛曹長(スコア12機以上:20機説あり:赤城ー>翔鶴)、藤田胎与蔵少佐(スコア11機:戦後、民間航空パイロット:蒼龍−>飛鷹)、重松康弘中佐(スコア10機以上:飛龍−>隼鷹)、白根斐夫中佐(スコア9機:赤城−>瑞鶴)、原田要中尉(スコア9機:終戦時生存:蒼龍−>飛鷹)、鈴木清延飛曹長(スコア9機以上:加賀−>隼鷹)、村中一夫少尉(スコア9機:戦後、航空自衛隊:飛龍−>翔鶴)などのエースが移ってきている。
またミッドウェー海戦で空母に便乗していた基地航空隊の6空からも兼子正中佐(スコア8機以上)が飛鷹への配乗を命ぜられた。


第五節 ベテラン搭乗員とは
それでは搭乗員の階級と練度の因果関係について解説しよう。
まず搭乗員の階級には大きく分けて士官(准士官を含む)と下士官、兵の3階級がある。
そして搭乗員たる士官は一般的に中佐以下、少佐、大尉、中尉、少尉、飛曹長の6階級、下士官は1飛曹、2飛曹、3飛曹の3階級(1942年11月に3飛曹は廃止され上飛曹が新設された)、兵は1等飛行兵から4等飛行兵までの4階級(やはり1942年11月に3,4等飛行兵は廃止され飛行兵長と上等飛行兵が新設された)に細分化される。
1942年7月の階級変更は名称が変わっただけに過ぎない。
1飛曹−>上飛曹
2飛曹−>1飛曹
3飛曹−>2飛曹
1飛 −>飛長
2飛 −>上飛
3飛 −>1飛
4飛 −>2飛
つまり開戦時の1飛は1942年11月以降の飛長と同等であり開戦時の1飛曹は1942年11月以降の上飛曹と同等だと考えて差し支えない。
(とりあえず本文では混乱をさける為、開戦時の階級を前提とするので御了承願いたい。)
さて階級と練度は因果関係を持つのであろうか?
日本海軍に於いては階級が下がる事はまず考えられないので同一人物の練度向上と階級の変化は相関関係にあるとみて良いだろう。
だが全ての搭乗員が4等飛行兵からスタートする訳ではない。
例えば後に「ラバウルのリヒトホーヘン」と呼ばれた笹井少佐(撃墜スコア27機)の場合、開戦時の階級は中尉であったが飛行学生(35期)を終了したのは1941年11月であり搭乗員歴は僅か1ヶ月に過ぎなかった。
これは笹井少佐が海軍兵学校(以下、海兵と略)の出身であった為である。
一方、海兵出身者ではない赤松貞明中尉(撃墜スコア27機)の場合、開戦時の階級は飛曹長であったが繰練(17期)を終了したのが1932年3月なので搭乗員歴は9年9ヶ月に及ぶ。
よって階級と練度は「必ずしも連動しない」と言えよう。
しかしコースが同じであれば大体の目安となる事も事実であろう。
各時点に於ける各搭乗員の飛行時間が判れば練度の比較ができるがそれは容易ではない。
「飛行時間が長ければ練度が高い」と言い切る事はできないが多くの方は「おおむねそうであろう。」と納得頂けると思う。
また「搭乗員歴が長ければ飛行時間が長い」と言い切る事もできないのだがこれについても多くの方が「まあそうだろう。」と御納得頂けよう。
よってとりあえず搭乗員歴で比較する。
それでは「どの程度の搭乗員歴があればベテラン」なのだろうか?
開戦時、もっとも搭乗員歴が少なかったのは飛行学生35期の1ヶ月、繰練55、56期の5ヶ月、乙飛9期の2ヶ月、甲飛4期の3ヶ月などである。
この時点での上記搭乗員をベテランだと言われる方はまずいないだろう。
もし彼らがベテランであれば全搭乗員がベテランとなり「練度を論ずる事自体が無意味」になってしまう。
(ちなみ坂井三郎中尉の開戦時の搭乗員歴は4年1ヶ月で階級は1飛曹だった。開戦時に彼の2番機であった横川2飛曹は3年10ヶ月、3番機の本田3飛曹は1年6ヶ月である。
後にトップエースとなる西沢中尉もまだ1飛曹で千歳空に所属しており搭乗員歴は2年9ヶ月である。そして半年後から始まるのラバウル航空戦で坂井1飛曹の列機には乙飛9期の搭乗員が多くなる。開戦時には搭乗員歴2ヶ月であった彼らはこの時点で8ヶ月。ガダルカナル戦の勃発時で10ヶ月。どうやら搭乗員歴が1年未満でもかなりの活躍をしたケースがあったようである。でも搭乗員歴6ヶ月未満となると...)
おっと。
ここで「飛行学生って何?」とか「繰練って何?」、「甲飛や乙飛って何?」って質問が当然、沸き上がるだろう。
よって次節ではこれらの説明と「搭乗員養成課程の変遷」について話を進める。


第六節 飛行学生と操練
さて日本海軍の航空機搭乗員が士官、下士官、兵の3種に大別される事は前述した。
それでは全ての搭乗員は最下級の3等飛行兵からスタートするのであろうか?
そんな事はない。
(まず最初に申し上げて置くが4等飛行兵と言う階級があるにはあるものの海兵団の教育や練習生のうちに年月が経ち昇進してしまうので実戦部隊に配員された時には最低でも3等飛行兵になっている。)
3等飛行兵として搭乗員歴のスタートを切る場合もあれば中尉として搭乗員歴を始める場合もあるのだ。
よって階級は必ずしも搭乗員練度の目安とはならない。
目安になるのは同じコースの搭乗員を比較する場合(繰練についてはこれとても除く)だけであろう。
さて、日本海軍の場合、航空機搭乗員となるには幾つかのコースがある。
これらには既存の海軍士官の中から士官搭乗員を養成する「飛行学生」と既存の兵から兵搭乗員を養成する「操縦練習生」(以降は繰練と略)、昭和5年に制定され以後、拡大されていった「飛行予科練習生」(以降は予科練と略)や一般大学卒業者等を対象とした「飛行科予備学生」などコース(名称や養成期間が逐次、変転していったが詳述すると大変なのでとりあえず省略する。)があったが最初に根幹となったのが「飛行学生」と「繰練」であった。
(士官搭乗員と兵搭乗員の中間となる下士官搭乗員の養成は特に行われなかった。なぜなら兵から昇進して下士官となる頃にはもう高年齢となっており搭乗員としての教育をするには無理があったからである。既存の下士官に搭乗員としての教育を施すよりは搭乗員としての教育を終了した兵を下士官へ昇進させた方が合理的なのだ。)
まず飛行学生だが対象となるのは海軍兵学校(以降は海兵と略)出身の少尉(1932年までは中尉)で選抜(必ずしも志願ではない事に注意!)のうえ教育(1932年以降の場合、この間に中尉へ昇進する)を受け実戦部隊へ配員される。
一例を示すと1917年生まれの宮野善治郎中佐の場合、1938年3月に海兵65期を終了(21歳)し1939年9月から1940年4月まで8ヶ月間、飛行学生32期としての教育(終了時23歳)を受けた。
その後、分隊士(中尉)として第12航空隊に勤務し1941年10月、大尉に昇進すると共に第3航空隊の分隊長に任ぜられている。
ちなみに開戦時の日本海軍戦闘機部隊だと分隊士(兵曹長、少尉、中尉)は小隊(3機編成)、分隊長(大尉)は中隊(9機:3個小隊)を指揮する場合が多かった。
(戦況が逼迫してくると分隊士でも中隊を指揮する様になる。)
そして1941年12月の開戦時、彼は24歳で搭乗員歴1年8ヶ月の分隊長(大尉)であった。
その後、彼は第6航空隊(後に第204航空隊と改称)の分隊長へ転属し1943年3月には飛行隊長に任ぜられている。
1943年6月、彼はこの配置のまま戦死して2階級特進し中佐となった。
最終スコアは16機、搭乗員歴は3年2ヶ月になる。
もし戦死しなかったらどうなったのであろう?
いつまでも大尉の飛行隊長でいる訳はないしいずれ昇進、転属していくのであろうが飛行学生出身の士官搭乗員はいつ頃まで搭乗員でいるのだろうか?
飛行学生出身の士官搭乗員が辿る道は分隊士(中尉)から始まり分隊長(大尉)、飛行隊長(大尉もしくは少佐)、航空参謀(少佐もしくは中佐)、飛行長(少佐もしくは中佐)、司令(中佐もしくは大佐)と上っていくが航空参謀以上は地上(もしくは艦上)勤務であり実質的な搭乗員ではない。
つまり航空参謀や飛行長になると多くの場合はそれ以降、搭乗員でなくなってしまう。
(中には航空参謀となった後、飛行隊長に任ぜられる場合もあるが。)
すなわち士官搭乗員たる士官が本当の意味で「搭乗員」であるのは分隊士、分隊長、飛行隊長に配置されている間だけなのである。
参考例をいくつか挙げてみよう。

       生年  飛行学生終了  最終飛行隊長   年齢  搭乗員歴
源田実  1904    1929    1938   34    9年
岡村元春 1901    1926    1938   37   12
中島正  1910    1933    1944   32   11
柴田武雄 1904    1928    1939   35   11
板谷茂  1909    1933    1942   33    9
周防元成 1912    1937    1944   32    7
相生高秀 1912    1934    1944   32    9

大体、35歳前後、搭乗員歴10年前後で飛行隊長を終え航空参謀もしくは飛行長となる事が判る。
それでは「もしも飛行長や航空参謀へ昇進しなかった場合」は何歳くらいまで搭乗員として勤務できるのだろうか?
海兵出身の士官は皆、昇進してしまうので参考例が見あたらない。
以下は「兵からたたき上げて士官となった古参搭乗員」で終戦時に生存していたエースによる参考例である。
       生年  繰練終了  終戦時年齢  搭乗員歴
赤松貞明 1910  1933     35   12年
半田亘理 1911  1933     34   12
羽切松雄 1913  1935     32   10
磯崎千利 1913  1933     32   12
坂井三郎 1916  1937     29    8

加えて1908年生まれで1929年に繰練を終了したエースに森貢中尉(スコア9機)がいるが彼は1944年8月の段階で退役(36歳:搭乗員歴15年)している。
これから見ても35歳前後が搭乗員の限界と考えられよう。
もっとも1944年2月にルオットで戦死した望月勇大尉の場合は1906年生れで1926年に繰練終了、戦死時は38歳で搭乗員歴は18年にもなるが...
(更にドイツ空軍のオステルカンプ中将は1892年生まれであるが第1次世界大戦で32機撃墜した後、第2次世界大戦でも6機を撃墜している。48歳まで実戦参加したそうなので「本当に35歳が限界か?」と言われると僕もちょっと困る。)

それでは次に繰練の説明を。
繰練は既存の海軍の兵から志願者を募り試験による選考の上、搭乗員として教育し航空科へ転科させるコースである。
重要なのは「全員志願である事」と「年限に達するまで何回も試験を受けられる事」で階級が同じであっても繰練が同期だとは限らないし繰練が同期であっても階級が同じとは限らない。
例を示そう。
片翼飛行で有名な樫村寛一少尉と「大空のサムライ」として名高い坂井三郎中尉は同年同月、海軍へ入営し3等兵から飛曹長に至るまで全て同時に昇進した。
だが繰練の合格時期だけが異なっている。
よって1934年に繰練24期を終了した樫村少尉は早くも航空へ転科、3等飛行兵に任ぜられたが坂井中尉の場合は1937年の繰練38期となった為、航空への転科は3飛曹からなのである。
すなわち1937年11月の段階だと両者とも3飛曹なのだが樫村3飛曹は搭乗員歴が既に3年4ヶ月、坂井3飛曹は「始まったばかり」なのだ。
開戦時に搭乗員歴4年1ヶ月の坂井1飛曹が「大ベテラン」であった事を考えると同じ階級ながら両者の差は大きい。
繰練出身者の場合、階級はあまり目安にならないと前述した理由はここにある。


第七節 航空予備学生と予科練
さてそれでは航空予備学生と予科練について説明しよう。
昭和が始まった頃、日本海軍航空隊が飛行学生出身の士官搭乗員と繰練出身の下士官兵搭乗員で構成されていた事は前述した。
だが航空機の性能が向上し航空機が海上兵力の主兵となるに及び既存の士官及び兵から要員を募るこれらの方式では来るべき戦争で搭乗員不足が発生するのは目に見えていた。
そこで士官搭乗員の不足を補完する為に航空予備学生、下士官兵搭乗員の不足を補完する為に予科練が制定されたのである。
まず航空予備学生からはじめよう。
1934年からスタートしたこのコースは在学中の大学生(同様の制度として高等専門学校卒業者を対象とする航空予備生徒もあった。)を対象としており約1年間の教育の後、予備少尉へ任じられた。
ただし第1期が5名、2期が14名、3期が17名、4期が12名と当初、その数は大変少なかった。
だが開戦を境に状況は激変する。
1942年2月に入隊した9期(34名)に加え兵科予備学生第1期からの転科者が100名(世界の艦船577号204頁)、10期として同時に入隊したのである。
よって9期と10期は1943年1月末、同時に少尉任官しており技能的には同一クラスと考えてさしつかえない。
加えて翌年には本来の11期85名に対し兵科予備学生第2期の74名(「暗い波頭」60頁)が12期として合流している。
ただし12期は合流が1943年5月まで遅れた為、11期とは技能的に若干の差があった様に思われる。
凄いのは13期で4726名(世界の艦船577号205頁:日本陸海軍総合辞典736頁だと4775名:5000名以上とする資料もある。)もの大量採用がなされた。
しかし13期が実戦部隊に配置されたのはマリアナ沖海戦で日本海軍が敗北し戦局の悪化が決定的となった1944年7月であり多くがフィリピン、沖縄の特攻作戦などで散華(戦死者数約1600名)するに至った。
14期もそれなりの数(資料によって異なるが約2000〜3000名)が採用されたがあまりにも戦局が悪化し特攻作戦すらも困難な状況に陥ったので戦死者数(約400名)は13期より遙かに少ない。
次は予科練について。
これは所謂、少年飛行兵制度であって高等小学校卒業程度の学力者(15歳程度)を対象としている。
1930年6月に入隊した第1期生79名は3年間(のちに2年半に短縮)に渡る教育を受け飛行練習生(飛練と略)として1年間の訓練を受けた後、部隊へ配員される。
1等兵の彼らはそれから1年を経ずして3飛曹に任官する。
撃墜王として名高い坂井三郎中尉(繰練出身)と西沢広義少尉(予科練乙飛7期出身)の昇進ペースを比較してみよう。
坂井中尉が3飛曹任官までに要した期間は4年6ヶ月であったが西沢少尉が3飛曹任官までに要した期間は3年5ヶ月と短い。
加えて1937年、初級幹部の養成を目途とし予科練に甲種(従来の予科練は乙種と改称:以降は甲飛、乙飛と略す。)が制定される。
対象者は中学3年終了程度の学力者(16歳程度)で教育年限は1年半(加えて飛練が1年)であった。
甲飛の昇進ペースは乙飛より更に早い。
坂井中尉は4等兵4ヶ月、3等兵1年2ヶ月、2等兵1年、1等兵2年を経て3等兵曹に任官したが甲飛の場合、4等兵は1ヶ月、3等兵は2ヶ月、2等兵は3ヶ月で実戦部隊への配員前に全員が3飛曹へ任官していた。
その後も甲飛の昇進は早く上平啓州中尉(スコア17機)の様に入隊後、5年7ヶ月で飛曹長(坂井中尉の場合は9年5ヶ月。西沢少尉は7年5ヶ月。)へ昇進している。
更に1940年になると前述の繰練が丙種飛行予科練習生(丙飛と略)と改称され以降、日本海軍の下士官兵搭乗員錬成は予科練として一系化する。
航空予備学生や予科練が飛行学生及び繰練と異なるのは「当初から搭乗員専門とし部外から要員を募った事」である。


第八節 空母機動部隊と基地航空隊の比較
さて日本海軍の搭乗員養成課程について話を進めてきたがそろそろここら辺で本論に戻りたいと思う。
1941年12月8日、空母6隻から発進した350機の日本海軍艦載機が真珠湾を奇襲した。
太平洋戦争の幕開けである。
同日、台湾を飛び立った日本海軍基地航空隊もフィリピンを襲ったが、果たして空母から飛び立った戦闘機隊と基地から飛び立った戦闘機隊とではどれくらい技量的な差があったのであろうか?
それではまず基地航空隊の方から話を始めよう。
参考例として台南航空隊を見ていく事にする。
前記したが開戦時の台南航空隊航空機数については諸説紛々としている。
一番多いのは堀越二郎、奥宮正武共著「零戦」にある零戦92機+98式陸偵12機、合計104機でありついで森史朗著「海軍戦闘機隊1」179頁の戦闘機72機(うち補用機18機)、陸偵12機(うち補用機3機)の合計84機や航空情報別冊「日本海軍戦闘機隊」の戦闘機72機(うち補用機18機)、陸偵6機の合計78機、奥宮正武著「太平洋戦争と10人の提督」の零戦64(うち補用機10)、96式艦戦6、98式陸偵8の合計78機などがこれに続く。
更に丸スペシャル「南方攻略作戦」では零戦54、96式艦戦6、98式陸偵9の69機となり奥宮正武著「海軍航空隊全史・下」では戦闘機60機、陸偵8機の68機となる。
これが「海軍航空隊全史・上」だと零戦54機、陸偵9機の63機と記述されている訳でいやはやなんとも収拾がつかなくなってくる。
これは以下の理由による。
1.定数と実数による差がある事。
2.定数の場合、常用機と補用機の差があり資料によって取り方が違う事
3.機種別差を取り入れた資料とそうでない資料、混同している資料が見受けられる事。
4.台南空は山田部隊へ稲野大尉指揮下の零戦14、陸偵3、96式艦戦4、ペリリューへ河合四郎大尉指揮下の96式艦戦部隊(総数13だが3空との混成なので内訳は不明)など各地に分遣隊を出しており資料によってそれを考慮している場合とそうでない場合がある事。
よって定数を艦戦72(うち補用機18)、陸偵9とし実数(開戦時に台南に存在した機数)を零戦45、96式艦戦12、陸偵6とする酣燈社「日本海軍戦闘機隊」による数値がもっとも実相に近いと考えられる。
何はともあれ開戦時、台南航空隊は45機の零戦をフィリピンへ出撃(うち9機は3空と同行)させた。
45機の単座戦闘機を出撃させたのであるから搭乗員数は45名である。
内訳は士官10名(准士官を含む:以降は例外でない限り准士官は士官数に含める)、下士官28名、兵7名であった。
(なおこの45名が台南空の全搭乗員数ではない。基地には96式艦戦が残っており予備員も含め多数の搭乗員が残っていた。また前月、課程を修了したばかりの飛行学生35期の中尉4名が配員されていた事も特筆すべきであろう。だが現在、手元にある資料では出撃した45名の搭乗員以外は不明なので割愛する。)
それでは空母機動部隊の方はどうか?
戦史叢書「ハワイ作戦」344頁に記述してある数値では空母6隻の戦闘機総数を120機としている。
これらのうち真珠湾奇襲に参加した板谷少佐指揮下の79機に関しては搭乗員氏名と階級が戦史叢書に記述されているので問題はない。
果たして残りの41機はどうであったのであろうか?
これら残存機は基本的に「機動部隊の上空直衛任務」についていた。
戦史叢書「ハワイ作戦」236頁によると攻撃隊は総数360機(実際より10機多い)で戦闘機は81機(実際より2機多い)の予定であった。
内訳は赤城、加賀、蒼龍から各18機、飛龍から15機、翔鶴、瑞鶴から各6機である。
よって残存機は赤城、加賀、蒼龍が各3機、飛龍が6機、翔鶴、瑞鶴が各12機の計39機となるのだが戦史叢書「ハワイ作戦」239頁にある「上空警戒第1配置B法」(ここでも翔鶴、瑞鶴の5航戦主体で記述されているが機数が少々、釈然としない部分がある)の通りに実際の上空直衛が行われていたか定かではない。
そこでモデルアート社の「真珠湾攻撃隊」を見てみよう。
ここには第1次上空直衛として赤城2機、加賀2機、蒼龍3機、飛龍と翔鶴及び瑞鶴各6機の計25機(赤城と加賀が1個小隊の定数である3機ではなく2機なのは編成上、妙なので恐らく何かアクシデントがあったのだろう。)の搭乗員氏名(なぜか加賀の分が無く23機分だけだが。)が記載されている。
よって第2次上空直衛は残った翔鶴と瑞鶴の計12機で行われたのであろう。
なんとか両艦へ乗艦していた戦闘機搭乗員を調べられない物だろうか?
あった。
岩本徹三著「零戦撃墜王」に瑞鶴の戦闘機搭乗員(残念ながら姓だけだが)が記載されていた。
う〜む、翔鶴の残り6機が判らない。
でもまあいいか。
「真珠湾奇襲に出撃するはずであったが実際には行かなかった2機(蒼龍と翔鶴各1機)」と「直衛で不明な赤城の1機と加賀の3機」及び「全く掴めない翔鶴の6機」など若干の問題は残るが大まかな所は判る。
こうして調べた所、120名の戦闘機搭乗員のうち士官24名、下士官63名、兵18名、その他2名計107名の出身は判明した。
階級的な構成比を基地航空隊と比較すると士官が基地航空隊22%に対して20%、兵が基地航空隊15%に対して15%と同率でありあまり差は見られない。
ただし階級差が錬度と比例しない事は前述した通りである。
よって「機動部隊と基地航空隊での錬度差」を「双方にどれだけ若年搭乗員が存在するか?」といった視点から検証してみよう。
(「空母機動部隊搭乗員の錬度が如何に高かったか?」ではなく「最低限、どれだけの錬度であれば空母機動部隊搭乗員たりえるか?」と言う話である。「どちらの方がよりベテランが多いか?」と言う視点も面白いのだが今回は話がずれるので止めておく。)
これまで「マリアナ沖海戦の頃ならともかく開戦時の空母機動部隊搭乗員には錬度の低い若年搭乗員など存在しない。」と思われる方が多く「かなり高錬度の搭乗員でなければ空母から発着艦できない。」と認識される方も多かった。
(「空母からの発着艦は容易だ。」などと言う気は毛頭ない。さぞや大変であろうし高度な訓練をそれなりに要するであろう。だが一般的な認識にちょっとずれがある事も感じている。僕自身が昔、その様なゲームをデザインしてしまった事もあるし。本文はそれについてのフォローの意味も兼ねている。)

まずは「若年搭乗員」の定義から始めるとする。
(ここで言う若年搭乗員とは必ずしも年齢の若い搭乗員を意味しない。搭乗員歴の浅い事を意味しているので御注意頂きたい。)
諸説色々あろうがとりあえず「搭乗員歴1年未満」としよう。
これに該当するのは飛行学生では34期(8ヶ月)と35期(1ヶ月)、操錬では54期(7ヶ月)から57期(2ヶ月:丙1期)と丙2期(1ヶ月)、予科練では甲3期(8ヶ月)と甲4期(3ヶ月)、乙9期(2ヶ月)である。
台南空の場合では45名中、10名(22%)が若年搭乗員であった。
これに比べ空母機動部隊では120名中、17名(14%)となる。
やはり相対的に見て「基地航空隊より空母機動部隊の方が錬度は上」と言えそうだ。
しかし「錬度が高くなければ空母には乗れない」と言った物でもなさそうだ。
なにしろ開戦2日目に蒼龍から発進した上空直衛機には搭乗員歴3ヶ月の甲4期出身者搭乗機すら含まれていたのだから。


第九節 低下する空母機動部隊搭乗員錬度
さて前節では開戦時に於ける空母機動部隊の搭乗員練度について記述したが本節では「その後」をざっと追ってみよう。
まずミッドウェー海戦だがこの戦いの時点では飛行学生35期以降、操練55期以降、甲飛4期以降、乙飛9期以降が搭乗員歴1年未満であった。
残念ながらミッドウェー海戦に参加した全搭乗員の資料は持っていない。
よって澤地久枝著「記録ミッドウェー海戦」に記載されている搭乗員戦死者簿をひもとく事にしよう。
同書によればミッドウェー島攻撃に参加した航空機のうち加賀から発進した艦爆の機長(偵察員)に乙飛10期がいる。
乙飛10期と言えば1942年3月課程修了なので搭乗員歴は僅か3ヶ月に過ぎない。
では練度不足を埋める為、ベテラン操縦員がペアを組んでいるかと思えばなんと1941年7月課程修了の操練56期なのでこれまた搭乗員歴は11ヶ月だけである。
(搭乗員歴に関わらず階級の高い者が機長となる事に注意。軍隊とはそうした組織なのだ。)
更に飛龍からミッドウェー島攻撃に発進した艦攻では搭乗員3名が全て甲飛4期(1941年9月課程修了:搭乗員歴9ヶ月)と言う機体も見受けられる。
それでは搭乗員戦死者合計から若年搭乗員を拾ってみよう。
搭乗員戦死者の合計は121名でそのうち空母固有の搭乗員は108名。
これらの中で若年搭乗員は21名(19%)となる。
まあベテランより若年搭乗員の方が戦死しやすいから開戦時の14%からちょっと大きな数値になったのかもしれないし「それ以外の理由」があったのかもしれないがいずれにしてもさほど大きな差は見られないと言えよう。
これがソロモン海の激闘と大損耗を経たマリアナ沖海戦時となると...
戦史叢書「マリアナ沖海戦」377頁によると1航戦(大鳳、翔鶴、瑞鶴)の601空は飛行学生38期(1943年9月課程修了:搭乗員歴9ヶ月)を補充指揮官の主体とし一般搭乗員は甲飛9期(1943年11月課程修了:7ヶ月)が過半数とある。
また3航戦(千歳、千代田、瑞鳳)の653空は飛行学生39期(1944年1月課程修了:5ヶ月)が補充指揮官の主体(10名中7名)で2航戦(隼鷹、飛鷹、龍鳳)の652空もほぼ同様だったそうな。
当然、練度は低く6月13日までの訓練期間中に56機以上の機体と66名の搭乗員を損耗している。
(訓練すればする程、大量損耗していくのだから恐ろしい。何かが違っている気がする。基本教育が足りない内に実戦配備された為なのか、機体になんらかの欠陥があるのか?)
ちなみにマリアナ沖海戦時、搭乗員歴1年未満であったのは38期以降の飛行学生、9期以降の甲飛、15期以降の乙飛、12期以降の丙飛、11期以降の特丙飛であった。
だがこれだけではちょっと実体が判らない。
まず第一に過半数が甲飛9期と言うのはちょっと信じ難い。
(どうやら艦爆隊偵察員のみに限った話だったらしい。)
そこで601空の艦戦隊に焦点を当ててみる。
川崎まなぶ氏が詳細な調査をされているのでこの部隊の一般隊員は出身が判る。
こうして一般隊員54名中、ベテラン搭乗員は20名、若年搭乗員は31名であった事が確認できる。
当時、601空は1個小隊4機で編成されていたから54÷3=18個小隊だ。
また2個小隊で1個中隊を編成(中隊長は第1小隊長を兼任)していたから中隊長9名、小隊長9名が54名に加わる。
これら指揮官の氏名は横谷英暁著「マリアナ沖海戦」で確認できる。
そして指揮官の出身は酣燈社「日本海軍戦闘機隊」で調べればバッチリだ。
まず中隊長だが9名中、6名が飛行学生38期の若年搭乗員であった。
だが小隊長9名は乙飛2期の加賀三信中尉、乙飛4期の丸山明少尉、繰練26期の福井義男少尉(スコア9機)、繰練30期の南義美飛曹長(スコア15機)、繰練43期の小平好直飛曹長(スコア11機)、繰練50期の山本一郎飛曹長(11機)、甲飛2期の佃精一飛曹長、乙飛7期の窪田晴吉飛曹長、乙飛11期の早川寿上飛曹などエースを含むそうそうたる顔ぶれで若年搭乗員は1名もいない。
その甲斐があってかマリアナ沖海戦の生還者は中隊長2名(生還率23%)に対して小隊長では6名(66%)に上る。
まあ、それはさておき前述した一般搭乗員に指揮官搭乗員を加えると72名中ベテラン搭乗員は35名、若年搭乗員は37名で全体の過半数(開戦時の14%に比べなんと51%!)が若年搭乗員で占められていた。
こうした事情が事故の大量発生や損害の多発、戦果の減少に結びついていった事は想像にかたくない。
何はともあれ「搭乗員の半分が若年搭乗員であっても一応は空母機動部隊」である。
「十分な戦力」であるとは言えないかもしれないが。
私が言いたいのは「ベテランでなければ空母機動部隊の搭乗員になれない。」のではなく「若年搭乗員でも空母機動部隊搭乗員になれるが十分な戦力は発揮できない。」と言う事なのだ。
よって「空母機動部隊搭乗員=ベテラン」と言う概念は「必ずしも正鵠をえていない。」と考える次第である。
なお次節では「経験者から聞いた体験談」を元に「如何にして搭乗員は空母機動部隊搭乗員になっていくか?」を解説してみたいと思う。
(続く)


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